橙の夕夜
トーキ、シロ
「白狐」
何時間対峙し続けただろうか、汗で貼り付いたシャツが気持ち悪い。しかし、動く事は出来ない。息を吐くのにも神経質になる。ブラッドオレンジ色の髪が汗で顔に張り付いていた。対する狐は人型を解かせて本来の二尾狐の姿にさせているが、余裕そうだ。右腕の刻印が狐の敵意に反応して警戒心を剥き出しにしていて刺さるように痛む。弱いシキ等は完全に格下で怯えている。シキに落ち着けと伝えたいがそれ程の余裕も無かった。
狐と出会ったのは一ヶ月ほど前だ。シキの餌を狩っていた時に、白髪を夜風に靡かせていたのだ。白い肌と相まって橙に近い金の瞳が余計に濃く見えて印象的だった。燈輝は最初、彼を人間だと思った。異様な髪も瞳は、自分も育て親も持っていた。なにより、人間でないモノは人の形を取らない。鬼の類は人に似た形をしているが、角だったり牙だったり背だったり、何かしらの特徴が人間ではないと直ぐに判るのだ。そもそも燈輝のようにシキとして従える能力を持つ者ならば、人間ではないモノは感覚で判る。しかし白髪の青年と出会い話している時は、人間離れした美しさと思いながら、うっすらと気配を感じながら、人間姿に惑わされていた。柔らかな姿勢に穏やかな口調、不思議な居心地に会う度に時間を取って会話を楽しんだ。
数回の会合の関係が終わったのはついさっき。彼が、人ならざるモノを喰っていたから。殺されると思った時には出していたシキを全て下げ、調伏の体勢を取って衝撃に耐えた。シキを出していたらシキを殺され、そのまま燈輝も殺されていただろう。白髪の男は舌打ちして、悪態を吐き燈輝に殺気をぶつけた。
極稀に人間の姿をするモノが居る、と噂に聞いた事はあった。まさかと思った事はあったが、都市伝説のような物だと思っていた。
「案外粘るな、人間」
狐姿になっても綺麗な白髪は毛に現れて、夜の中では輝いて見えた。もう少しで夜明けだった、境界が白み始めている。
一応疲れてきてはいるのか。
「まあ、未だ死にたくねェし」
疲労を隠して笑顔を見せれば、ペロリと舌を覗かせて狐が笑う。
「殺さぬと言ったら?」
彼等は契約を違えない。
「お前等は約束を違える」
人を喰うヒトは少ない。気の性質が違うからだ。しかし、稀に人を喰らうモノも居る。ヒトが保有している気は他に比べて大きい。これだけの気を持つ狐ならば、人を喰らっても可笑しくない。普通の気だけでは満足できないだろう。狐は喉で笑って二つの尾を揺らす。
どんな結末にせよ、この争いを終わらせる気だろう。
「ならば殺さぬと契約してやろうか?」
昼に出るモノも居るが、大抵のモノは日の光を嫌う。日が出れば力が弱まるだろう、と持久戦に持ち込んだのは間違いではなかった。
「一生俺を殺せなくなるぜ?」
そう笑って余裕ぶる。見透かしたような瞳が痛いが表面には出さない。
「だから?」
「付きまとう面倒な人間が一人出来るな」
流石にもう狐の気配を覚えたから、気を辿る事は出来る。付きまとうかどうかは解らないが、嘘と言い切る事も出来ない。
「それならば僕が付きまとってやろうか」
え、と思った時には狐は近寄っていた。流石に未だ喰われる程疲労はしていない。
「お前が怠惰ならば途中で喰ろうてやる」
望んで主従の契約をするつもりなのか。
「人間に仕えた事はないが、死んだら喰って良いのだろ?」
人とヒトの主従契約には、完全に屈服させる場合と己を対価に差しだす場合とがある。後者は契約内容にもよるが、大抵は死ぬ時に躯や気を差し出す事が多い。定期的に身体の一部、血液等を喰わせる場合もある。
「俺にその価値があると?」
狐は少し悩むような素振りをすると、何かを思い付いたようでにっこりと笑う。
「無いならば僕が育てれば良かろ。腹が空いたらお前の血を飲んでやる」
(吸血鬼かよ)
燈輝は気を張りつつも、契約内容を考える。狐の提示は悪くない、譲歩されている。今回は運が良かったが、燈輝が殺されても不思議でない程に狐は強い。彼等の暗黙のルールを使って対峙して、疲労させただけだ。夜も更けていて朝に近かったし、月も細かった。
「そう言って喰い殺すんだろ?」
賢いモノは契約の穴を突いて主である人を殺す。契約を守らなければ、彼等は彼等の規律を守らなければ、自身の力に躯を壊されるか、狂ってしまう。
「ならばお前が契約を組め」
ニヤリと笑む狐に燈輝は怪訝そうな顔をする。狐は燈輝の意を理解して言い訳する。
「今の生活に飽いただけだ。お前の未来など高が数十年だろう」
百年以上生きたモノに出会った事はない燈輝には、数十年を短いとは思えない。
「百年とか生きるかもしれないぜ」
「老いても僕を留める力を持っていると?」
燈輝は応えず狐に笑って見せた。狐が笑い返すと、燈輝は契約内容を提示した。
空が明るくなっていた。完全に日が昇るのはもう直ぐだろう。契約内容を擦り合わせ、合意した。後は印を刻む場所を決めてモノに名を与えて縛るだけだ。狐が予想以上に細かく取り決めると面倒そうにしていたが、興味はあるようだった。契約を破るつもりが無いというのは本当のようだ。
「何処が良い?」
燈輝がシャツに隠れた右腕を晒す。褐色と橙の混じった色の刻印が肘から手に掛けて埋まっていた。
この刻印一つ一つが契約の証で、燈輝は多い方だ。狐の予想よりも腕を覆っていたのか不満気だ。しかし大抵は人が勝手に刻印の場所を決めるのだが、燈輝はモノに決めさせる。存在を縛るのだから、それくらい与えても良いだろうというのが燈輝の考えだった。それに印を刻む事が出来る場所は燈輝には判らない。モノは何故か右腕のみと判るようだ。印は何故か片腕にしか刻めない。
狐は暫く悩んだ後、フと笑うと突然人型を取り、壁に寄りかかって立つ燈輝の足元に膝を付いた。
「もう名は決めたのか?」
見上げる鮮やかな橙の瞳にくらりとする。そっと左手に触れられて自分よりやや低い体温を感じた。
「ハクトウ。白い橙、白橙。俺の名はスバルトウキ、昴が橙に輝く、昴橙輝だ」
普段名乗る名は、漢字が違う。戸籍上も名乗っているのと同じだが、本来は昴橙輝だ。ミドリと契約した後の髪はもっと黄色で漢字のままだと思っていたが、何時の間にか赤味が増してブラッドオレンジになってしまった。当て字の燈の方が感覚的には近い気がすると燈輝は思っていた。
白い肌に、赤い舌が覗いて目を奪われる。開いた唇に指が吸い込まれる。
「昴橙輝、もう一度名を呼んでくれ」
「俺のシキになれ、白橙」
かぷりと指を食まれ、印が刻まれ契約が結ばれたのを躯の内で感じた。燈輝がほっと安心した途端に牙が浅く突き立てられ、淡い痛みに震えるが吸い付かれる。
「シロ、何してる」
直ぐに出血が治まる傷口を舐められ、慌てて手を引くと白橙は意地悪そうに笑んだ。
「味見。不味かったら狩るかお前を殺るかしないとならないからな」
燈輝は溜息を吐いて改めて刻印を眺めようと右手を上げようとして、止まる。
白橙は左手に触れていなかったか。恐る恐る眼前に左手を掲げた。
「は?」
見慣れた褐色気味の橙色の刻印があったのは、左手の薬指の根元。まるで指輪のように複雑な模様が細かく刻まれている。くすくすと楽しげに白橙が笑う。
「人間は一生をその指で契るのだろう?」
「俺は右しか刻めないんじゃねェのかよ」
両腕に刻印を持つ者は居ない筈だ、聞いた事も見た事もない。何故だか知らないが、刻印は片腕にしか刻めない。シキを宿せるのは片腕だけ、な筈だ。それに強い方が印は大きく、複雑な事が多いが、指を一周する刻印の面積は小さい。
「知らないよ、そんな事。私がそこが良いと望んだから、そこになった」
両腕に宿した人間が現れたと噂になったら、面倒事に巻き込まれそうだ。そもそも人型のシキを宿しているだけでも面倒な事になりそうだ。
綺麗で気に入ってたし、自分の命の為にもシキにするのは良いが、考え無しではなかったかと燈輝は今更後悔をする。
「ワザとか。お前、他の人間にシキとバレるなよ」
刻印をなぞりながら燈輝が言った。指輪でも買って隠そうかと思案する。
「それは命令?」
こてん、とわざとらしく首を傾げた白橙に燈輝は眼を細めた。
「嘆願でも何でも良い。面倒な人との戦闘の原因になる」
ふうんと笑む白橙を見て、逆効果かと思う。喰いたくなったらバレれば良いと思わなければ良いが。燈輝が思っていたよりも、どうも性格が捻ているようだ。
他のシキと挨拶もさせたいけど、もう疲れた。
「帰るぞ、眠い」
疲労を一度感じると、一気に重くなる。久しぶりに丸一日休む事になりそうで、燈輝は白橙の手を引いて家路に着いた。