生死ベクトル
奈津x静雅
<知ることは幸福であるか>
珍しくナツが僕の前で寝ている。
最近のナツは何処か不安定で、理由があるのかと聞いたら何故か僕の家で飲む事になった。何度かナツの家で酒を飲んだが、僕の家では初めてだった。外で飲むより楽で帰りの心配をしなくてよいから家で飲む方が好きだ。少しの酒と、ゆっくりした食事と会話は、どれに逃げる事も出来る。それにナツが気付いているからだと思ったのだが、それだけでもないらしい。しかし、詳細を聞く前にナツは酔い潰れてしまった。
それで、今は僕のベッドをナツが使っている。
夜中に起きて、残った酒に眉を寄せる。完全にやけ酒だった、酷い。重い瞼を押し上げると目の前に静雅の顔があった。また心配させた。最近、ダメだ。
「大丈夫か?なにか欲しいものがあれば、持ってくる」
水でも、と離れそうな彼の腕を引いて首に腕を回す。
「しずか」
体勢が崩れて、彼は頭の横に肘を付いた。
「キスして良い?」
応えを聞かずに唇を合わせた。
何度か重ねて唇を舐める。名を呼ぼうと開いた唇に舌を捩じ込んで咥内を荒らす。軽く舌に歯を立てて吸う。上手く呼吸が出来ないのか、合間に引き攣ったように息を吸う音に昂りを覚えた。
指に絡んださらさらの髪が気持ち良い。
「静雅、好きだ」
言って、頭が冷えた。ほら、困ってる。
起き上がって財布を取って逃げるように部屋を出る。
「ゴメン、頭冷やしてくる」
転がっていた上着を拾って、静雅は展開についてこれないだろうなと思いながら玄関を抜けた。
久しぶりの煙草に軽く咽る。広がるメンソールに後悔が後を追う。財布には何時もライターと一本だけ入っていた。酷く後悔した時だとか、自分に嫌気が差した時にだけ吸う。気持ちのリセットのお守りみたいなものだ。
静雅の部屋の目の前の廊下で手摺に腕を乗せて、なにを言おうか考える。
寒さの中に散った紫煙を眼で追った。視界の端に映る穂先から熱を感じ、逆に寒さが身に沁みる。春が近付いている筈だが、暖かくなる気配がない。忘れて、と言っても仕方が無い。嫌でないなら今迄通り、とか。それにしよう、うん。
半分程吸って結論が出た。駅から程よく離れた住宅街は微かなざわめきが漂っていた。金曜日独特の遅くまで騒がしい駅前を思い出す。
突然、背後でバタンと扉が音を響かせた。背後の扉が開いて静雅が俺を呼びながら飛び出してくる。珍しく酷く焦っているようだった。
「どうしたの?」
マンションの廊下の微妙に暗い蛍光灯では息を整えようと俯いた顔は伺えない。息を乱したまま、焦りを残した動きで俺の腕を掴む。火を気にしない彼の行動に慌てて煙草の火を消した。
落ち着けようと背を撫でるとずるずるしゃがむ。大丈夫と声を掛ければ小さく頷く。
「気が抜けた、だけ」
「大丈夫じゃないだろ。どうした?」
座り込んでしまった彼が見上げる。うっすらと涙目で眉が寄り泣きそうな、泣き止んだ後のような表情だった。
何故と小さく聞こえて、告白した理由を問うているのかと思いつつ、此処に居る理由で誤魔化す。
「ゴメン、煙草吸ってた。久しぶりにあんなに酔ったから」
薄着のままの彼に上着を掛ける。食欲があまりない彼はよく体調を崩す。座り込んだコンクリートの冷たさに立つように促した。
これで誤魔化されてくれと思いつつ、嘘は見抜かれるだろう事も解っていた。
「ナツが、もう来ない気がして。ナツが何処かへ行ってしまうと思って、だから、えっと」
言葉が見付からないまま喋る事は少ない。焦らせないように上着の上から背を撫でる。早まる呼吸を抑えて、彼は掛けたジャケットの裾を掴んだ。
「俺を追い掛けに来た?」
頷く彼に嫌われていないという安堵と同時に、迂闊さに苛立つ。
相変わらず、危機感が無い。
「静雅、解ってる?さっきキミは俺に無理矢理キスされたんだ。好きだと言ったけど、俺が性的な意味で襲った事は変わらない」
脅すように唇に触れても嫌がらない。真直ぐ見詰めたままの瞳に目眩でも起こしそうだ。チャンと逃げてくれないと。
「でも、嫌じゃなかった。そんな事よりもナツが居なくなる方が嫌だ」
握り締めた手が小さく震えていた。きっと感情に身体が振り回される事になれていない。発作の原因になりやしないか不安になる。我慢出来る程だったとしても、何時酷い発作になってしまうか解らない。静雅に死んで欲しくない。
風に流されず服に移った煙草の臭いに静雅は小さく咳き込んだ。やっと落ち着いてきた身体を促して屋内に戻る。上着は外で叩いて途中で置いた。後を行く俺を何度か静雅は振り返った。揺れる瞳を見ると、取り乱す程不安にさせたと実感する。誤魔化そうと決めたのに、揺らぐ。
遅い時間と自分は少し寝た事を理由にベッドに入れる。すっかり冷えてしまった彼に毛布を掛けた。未だ不安に揺れる瞳を見下ろして、溜息を吐きたくなる。彼は逃がしてくれない。それが静雅を追い詰めかねないのに。
毛布の端をきつく掴んだ指先は冷えたせいもあって、白くなっていた。静雅は答えが欲しかった。何故と問うた答えと、居なくなるのか否か、と。
「ナツ」
感情を隠した奈津の眼を見上げ、指先を迷わせ、結局は毛布を掴んだまま奈津を呼んだ。未だに触れる事に慣れない静雅に奈津は苛立ちを感じる。抱き込むように尽くしているのに、物語だったら理解しそうなのに、静雅は未だに自身に触れる奈津の想いを理解しない。
離れる事が怖いなら、手でも服でも握れば良いのに。
奈津はワザと態度が悪く見えるようにしゃがみ、顔に掛かっている静雅の長い前髪を退けた。
「もう一度キスする?」
意味が解らない、と訴える瞳につられて頬を撫で顎に指を掛ける。
「静雅が俺に性的な好意を含めて見られるのが嫌なら、このままサヨナラしよう」
泣きそうな瞳に嘘だと言いたくなる。冗談だと笑ってしまえば簡単なのだろうか。静雅は必死に言葉の意味を理解しようと物語の記憶を漁っているのか、出来ないで困っているのか、唇を噛んでしまっていた。
「静雅」
辞めさせようと呼べば、俯いていた顔を上げる。先迄ふらふらと彷徨っていた視線が真直ぐ芯を持っていた。出会った時のように美人だ、と思う。何処か悲しげな寂しい普段の顔とは違う。
静雅は毛布を放り出して奈津のシャツにしがみつき、引き寄せた。顔を寄せ、一瞬困ったように固まる。奈津が驚いている間に再び顔は寄って、唇が重なった。乾いた唇同士が離れると、静雅は唇を舐めて奈津の胸に顔を埋めた。
「離れる方が嫌だ。僕は好意を受けた事がないから、解らない。厭うべき状況だったかもしれないけれど、僕はナツが居なくなってしまう方がずっと嫌だ」
必死に伝え、留めようと縋る静雅を抱き締めようと腕を上げて、止めた。奈津はその腕でそっと頭を撫で、腕から滑らせて手を重ねる。
時々、彼は普段のゆっくりした思考から考えられない程に、潔く決断してしまう事がある。毎回、驚かされて置いて行かれたような気分になる。
「静雅が良いって言うなら、俺は居なくならない。なにも言わないで居なくなる事も絶対にしないから」
自ら触れる事を厭う彼に、触れても良いのだと教えたくて握った手を撫でた。
「さっきはゴメン。襲うつもりがなかったから、自分でも驚いて頭を冷やしに出て行った。酔った勢いと言い訳する事も出来るとか、無かった事にしようとか、静雅にどんな顔をしてなにを言ったら良いか、考えてた」
必死な彼から逃げようなんて、愚かしい。彼の真直ぐな心を穢すようだ。
「だから、居なくなる心配なんてしなくて良い」
見詰める瞳を受け入れて、髪を梳きながら撫でていると、静雅は小さく頷いた。
緊張して詰めていた息を漏らすと、ナツが笑った。ゆっくりと瞬きをすると眠気を指摘され、自覚する。
「さっき迄、俺がベッド占領しちゃったからな。お蔭で眠くないから、静雅はベッド使って寝なよ」
とん、と押されてベッドに横になる。もう少し考えたい事があるのに。
直された毛布と暖かい手と柔らかい声に、静雅は眠りに落ちた。
今は未だ、ただ一緒に居られるだけで良い。何時か離れる事になっても、どんな関係を続けようとも、静雅がもっと楽しい事を知ってくれれば良い。寂しそうな悲しそうな顔をしない未来があれば。
暫く奈津は静雅の寝顔を眺め、離れた。