生死ベクトル

奈津x静雅

<私は私の>

 苦しい。
 外に出ると、余計に溺れているような苦しさを感じて、静雅は引き篭っていた。気を紛らわせるように文字を喰らって、喘いでいるのは行間の底に沈んでいるからだ、自分を錯覚させる。普段だったら、奈津が来て沈んだ静雅を引き上げようとするが、奈津は来ない。静雅は無意識で玄関の鍵を締め、時間間隔を本に呑ませた。




 目覚ましが鳴っている。そんな気がして起きた。
 何時眠ったのか解らない。曖昧な睡眠から抜けきれずに、ぼんやりと時計を探し、無いのだと思い出した。一人暮らしを始めてから、目覚まし時計は無い。音源辺りで視線を揺らして、音と共に明暗する明かりを見付ける。のろのろと手を伸ばして、携帯の存在を思い出した。
紙を鋏で切るように、空気を傷付ける音で眼を覚ましつつ、通話ボタンを押す。
「静雅、部屋に居るよな」
緩い吐息の後に声が聞こえて、久しぶりだ、と静雅は思った。
 何時からその存在を意識から消していたっけ。
 電話越しの声が何度か静雅を呼ぶ。
「ナ、ツ……?」
「電話に出なかったら管理人呼ぶところだった。開けて」
玄関からノックが聞こえて、静雅は首を捻った。
 何時もだったら勝手に入ってくるし、静雅は出掛ける時でなければ鍵を締めない。施錠はつまり不在を表すので、奈津が解錠を求めた事は静雅を家に送った時だけだ。
 繋がったままの携帯電話を崩れかかった本の山に置いて、玄関へ足を運ぶ。起き抜けだからか、力が入らないな、と静雅は思った。扉越しに呼ぶ奈津の声に鍵を摘んだ指を震わせて、世界の扉を閉ざすような重さだと思考を跳ばしながら、時間を掛けて開けた。
 静雅がノブに手を掛けると、向こう側から扉は開いて静雅を押し退けた。
「静雅」
滑り込むように奈津が入り、閉じる扉を見送る前に静雅は抱き締められた。
 くるしい。
 はふ、と息を吐くと奈津は静雅を開放し、奥へと引っ張る。
 物が見えるのに暗い部屋で夕方か、と静雅は瞬きを繰り返す。なんだか、違う気がした。
 ナツに会ったら、聞こうと思っていたけれど、なんだっけ。
 寝起きの鈍い思考のまま、静雅は奈津に促されるままベッドに座る。髪を梳きながら撫でる手が懐かしい。もっと、と思うが手は離れ、呼ばれて顔を上げた。窓に殆ど背を向けているから、片目の端だけしか見えない。真暗の奈津の顔を静雅は見上げて言葉を待った。
 じっと見詰める瞳、言葉を迷って一度開いて閉じる唇。似ていると静雅は内側の呟きに、なにに、と捜索を命じた。
「なにかあったわけじゃ、ないよな?」
言い聞かせるような、ゆっくりとした口調に、静雅は奈津と会っていない暫くの出来事を順繰りに思い出す。
「静雅?」
「なにも、なかった」
ぼんやりとした静雅の瞳を、寝起きだろうと思いながら奈津は見下ろす。
「痩せたな、殆ど食事してないだろ。構内で見なかったし、登校してなかった?」
 おこってる。
 暗い部屋、視点の差、威圧感のある重い声、少し早くて静雅には理解に時間の掛かる言葉。それ以外に聞こえない不気味な静けさ、見えない思考。状況が混乱する。
「……ごめんなさい」
 みたら、だめ。
「きってないし、のんでないし、くるしかったけど、なにも」
 眼を閉じて俯き、絞り出すように、それでも聞こえるように、煩くないように、静雅は言った。
 理解の前に次々と言葉が入ってくる。低く重い声、高く鋭い声、舌打ち、啜り泣き。静雅はこういう時の家族は、一段と見てはいけないのだと知っていた。散々、喋るな見るなと言われたので、知っていた。


 何時の間にかナツは上に居なくて、下に居た。
 覗き込むような視線にドキリとする。慌てて眼を閉じようとした静雅の手を奈津はゆっくりと撫でた。
「俺は見ても良いんだ、忘れた?」
喉で息がつかえて、呼吸の仕方を忘れる。大丈夫だよ、と背を撫でる手に合わせて肩を上下し、恐る恐る奈津と眼を合わせた。
 柔らかい瞳に肩を降ろすと、奈津は撫でていた手を上げて頭を撫でる。髪の下に指を差し入れて、ゆっくりと下ろすのを繰り返した。
「珍しく鍵が掛かっていたから、驚いたんだ」
ゆっくりと瞳を見ながらの会話に静雅は取り乱していた事を思い出す。
「僕、間違えた?」
 家じゃないのに。病院でもないのに。
「久しぶりだし、俺が怒ったから。でも、もう大丈夫だろ」
 ごめん、と零せば奈津はいいよ、と簡単に笑顔を見せた。それに、静雅は深く安堵する。
 俺も悪い、と奈津は撫でながら、もう片手で静雅の手をきゅっと握った。
「ごめんね、静雅。鍵が掛かっていたから、出掛けてるかなと思ったんだけど、部屋から携帯の音して」
焦りがぶり返して奈津は言葉を区切って俯く。感情を強く前に出さないと思っていたから、静雅の前で泣いたり怒ったりする自分を奈津は制御し切れない。焦りが口調に出ないよう抑えて再び顔を上げ、静雅に触れた。
「俺の知らないところで静雅になにかあったんじゃないか、と怖かったし、心配した」
 静雅は案じられる事に慣れていない。
 理解の間を待って、奈津は言葉を紡ぐ。
「もし静雅になにかあったら、俺は自分を許せない。さっき静雅に怒ったのは八つ当たり。静雅に怒ったんじゃなくて、俺に怒った」
解ると首を傾げると、静雅は暫くして小さく頷いた。
 ところで、と奈津は傍らの開いたままの携帯電話を寄せて動かす。未開封のメールと着信を知らせつつ確認していないアイコンを確認して、やっぱり、と奈津は呟く。
「メールしたけど、見てないだろ。テニスの大会中で、バイト先の一つで怪我で休みの子が出て、忙しいって送ったんだけど」
電話も何回かしたんだよ、と画面を示すが静雅は首を傾げただけ。
「見ないのも、時々する電話にも出ないのは予想済みだった」
パタンと閉じられて机に置かれる携帯を眼で追い、呼ばれて奈津の瞳に視線を戻した。
「だから、静雅じゃなくて俺に怒ったの。嫌な事思い出させて、ごめん」
ふるりと首を横に振った静雅の頬を撫でる。状況的に死にたがりの欲望に追われて不安定なのは察するべきだった、と奈津は後悔する。この状況で怒りをぶつければ、彼の両親と同じだ。それは奈津の一番忌むべき事でもある。
 一緒に居たいと言いながら、支える余裕すら無いとか。
 落ち込むのは後、と言い聞かせながら静雅に触れた。此処に在って、本当に安堵し嬉しいのだと伝わって欲しい。撫でる手を握り返し、静雅は瞳を揺らす。迷っているな、と思って奈津は先を促した。
「でも、僕も。僕も、メール見てないし、電話もずっと出なかったし」
「静雅はメール打たないだろ。確かに電話は一度くらい折り返して欲しかったけど。静雅は苦しくても我慢してくれたから、良いんだ」
静雅はあれ、と思考を沈めた。
 何故、苦しかったんだっけ。




 あっという間に粥を出されて少し胃に収めて、風呂にも入った。奈津が居るだけで、静雅は一気に人間らしい生活を送る。実家に居た頃と変わりないようで、全く違う。全てが暖かい。
 風呂で今日は何時、と奈津に問うて溜息を吐かれ、日付と明日から連休だと告げられ、執行猶予のような期間に静雅はほっと息を吐いた。それがまた、奈津に仕方無いなと笑われるのだが。
 後ろから抱きかかえられた格好でベッドに入って、静雅は落ちていた思考を拾う。
 そうだ、ナツに聞こうと思っていたんだっけ。
「ナツは、僕が他のヒトと仲良くなったら嫌?」
え、と漏らした奈津は動揺を隠しつつ、どうして、と問うた。あまり奈津は答えずに問いを返す事をしない。静雅は暫く考えて、言葉を選ぶ。
「前に、僕の嫉妬を喜んだ時があった、から」
「ああ、あったね。その逆があるのかって、事かな」
それなら仲良くするのはイヤだ、と奈津は続けつつ思い出す。
 何時だったか、サークル経由の友人である女性と歩いていたのを静雅が目撃して、端的に言えば嫉妬した。たぶん、なんだかモヤモヤした、が彼にとって正しい言葉だけれど。
「静雅がヒトの群れに憧れているのは知っているけれど、鳥籠作って閉じ込めて独り占めしたい」
引かれるかな、と思いつつ正直に明かせば静雅はそう、とだけ返した。
 嫉妬に戸惑う様子が可愛かった、と悦に入りつつ、奈津は静雅を抱き締める。
「どうして、そういう事を考えていたの」
「ナツと、僕の事を考えていた」
続きそうな言葉に奈津は待ったが、静雅は黙って、そのまま眠ってしまった。
 なにを考えていたんだろうな、と奈津は思う。
 出来れば恋愛感情絡みであれば良いけれど。
 静雅が奈津の腕の中で大人しく抱かれている事は少ない。奈津は久しぶりだという事もあって満喫しようと、より身体を近付けた。






 僕の執着の仔細を考えていたら、何時の間にか君の好きはどんな好きなんだろうと考えていて。
 でも、曖昧な僕が彼にそれの詳細を問うのは違う気がした。
 独占したいという気持ちは汚いと思ったけれど、独占したいと思われるのは心地良くて。
 僕は君を欲しても良いのかもしれない、と思えた。
タイトル<私は私の>
W2tE様より、太宰讃選