生死ベクトル
妖物ver/奈津x静雅
出会い
ある雨の日、一匹の鬼を拾った。最初、女性の幽鬼だと思い違いしてしまう程に綺麗だった。今ではどうして違えたのか解らないのだが。彼は自身の由来を何も知らないので、鬼として生まれたのではないかもしれない、もしかしたら幽鬼の可能性もある。死んだ後に鬼になった人。
壊れようとしていた彼を、オレは現世に縛り繋いだ。
雨は彼に纏わり付く悲哀だった。実際、彼は深い悲しみを持っていたし、自壊を願っていた。ただ、自壊は悲しみからではなく、根源の知れない欲であり衝動だった。それがまた、彼の悲しみを助長させる。
眼を合わせてはいけないと知りつつも、面を後ろへ回したまま、呆とした綺麗な瞳から視線を逸らす事は出来なかった。あの時の彼の瞳は虚空を観ていた。人でも生物でもないと直ぐに解る、異様な瞳をしているにも関わらず、綺麗だ。
差していた唐傘を傾けて、彼に降り注ぐ冷たい雨を遮った。
「おいで」
やっと傍らの妖奇士の存在に気付いた彼は、その時初めて俺を瞳に映した。
彼は自身の素性だけでなく、名すら解らなかった。鬼の生まれや由来は人の知の下に無いが、存在はする。声と語で事象を操るものにとって、名と由来は大切なものだ。その存在の根源に近く、握られれば操られる原因になってしまう。
鬼も生き物と同じように群れる傾向があるというのに、彼はその輪の中に入れなかった。何故か彼は輪に入ろうとしても、迎え入れられても、異物になってしまう。彼は輪の中に入れない。だから、彼はそれを観るだけで、自身の事は知らない。
俺は彼へ、最初に空間を与えた。今迄無かった、彼の居場所。次に名を与えた。今迄無かった、彼の形の語。
「静雅」
書から離れて瞳が俺へ向く。返事が頭の中で響いた。
彼の声を聴く事は滅多に無い。己の詳細を知らないくせに、彼は自身の性質をよく理解していた。きっと、経験と観察によるのだろう。
読んでいた書は面白いか問えば、丁寧に応えてくれる。普段の彼は喉を震わせる事も、空気の流れもなく、口だけがまるで喋っているように開閉する。それを見ながら聞くと、本当に声を聴いているかのように錯覚する。
[ナツは何故、僕に静雅と名付けたの]
彼は俺が与えた名を気に入っているらしい。名がある事で、必要とされる事で、自身が望まれている事が彼にとって憧れの輪に入ったように思えるらしかった。実際には入れないまま、近付けただけで俺に占有されているのだが、彼はその現実を理解して満足しているらしい。
「静雅が出会った日の雨のように静かで悲しみを内に飼っているから、しずか。それから、目を奪われる程に綺麗だったから雅を合わせて、静雅と書かせた」
出会った日を思い出しているのか、遠くに意識を馳せながら彼は小さく微笑んだ。
「急にどうしたんだ?」
[僕の、由来の一つだから。きちんと知って、大切にしようと思った]
彼は輪に入れない事の方が辛く悲しんでいたように思うのだが、由来が無い事もまた、彼の悲しみの欠片でもある。
「静雅は可愛いな」
おいで、とあの日と同じように言うと彼は乱れた着物の裾を引き摺って傍へ寄った。
「俺があげたものを大切にしてくれて嬉しいよ」
生き物の温もりが無い彼の髪へ指を通して頭を撫でる。躊躇いながらも猫のように擦り寄る彼は愛おしい。
一つの物事に執着しなかった俺が、彼にだけは暗い欲望が渦巻く。大切にしたい、という思いと擦れて苦しくなって進退窮まって行動に移すのはもう少し先。