ShortStory

ML?

金魚を視る

 折り返していく一両だけの電車を無意味に見送る。大嫌いだった無人駅に、懐かしさを感じた。東京の駅も綺麗ではないと知っている今では、人が居ない事しか気にならなかった。ペンキの禿げたベンチに荷物を投げ出す。
 残る電車は夕方と夜の二本だけだ。家に顔を出し、友人に会いに行くと、夜の電車に間に合うかどうか怪しかった。面倒だから帰りたかったが、諦めた方が良さそうだ。
 ジリジリと焦がす熱と、少し乾いた風に帰ってきた実感が湧いた。単純な暑さは、都会の性格が悪そうな暑さに比べて気持ちが良い。
 到着時間は電話で伝えた筈だったが、迎えが来る気配は無かった。待っていると、暑さでシャツが鬱陶しくなる。時計を確認し、これだから田舎は、と悪態を吐いて自販機を探した。
 緩んだ筋肉に気を遣って最近は茶ばかり飲んでいたが、暑さに炭酸が飲みたくなった。
 荷物を置いたまま外に出て、間の抜けたエンジンの音が聞こえた。手で庇を作ったが、陽炎に滲む視界では解らない。
 数瞬見ただけで自販機を探すのを諦め、日陰に戻った。記憶ではある筈の場所に、赤い自販機が無かった。薄っすらと壁に跡を残しているが、コンクリートの地面は雑草に覆われ、なにも残っていなかった。

 近付いた軽トラに、祐介は片眉を上げた。白い車体がロータリーを無視して乗り上げ、駅舎に横付ける。
 着いた時に想像していた迎えとは違う人物に、祐介は戸惑いを隠して片手を上げた。
「よう。お前の家族は忙しいんだってよ」
「どうせ面倒くせえだけじゃね」
知らねえよ、と返す友人からは昔とそう変わらない印象を受ける。
「荷物でけえな、後ろに載せろ」
「やだよ、熱くなる」
 ひょい、と軽く荷物を持たれて戸惑った。細い身体に似合わない動作。
「どうした」
もやしっ子、と東京に出たヤツを笑う光景は見た。そうならないように気を付けたつもりだったが、忙しさにかまけて、最近はトレーニングをしていなかった。
 平静を装う事は得意になっていた。
「なんでもない」
「どうせ、畑に出てんだろ。家、寄ってけよ」
冷たい茶でも出してくれ、と秀司の後に続いて軽トラに乗り込んだ。


 陽炎が水に見えると言ったのは何時だったか。伸びた草に隠れた農具の赤が、金魚に見えると言ったのは別の時だったろうか。
 なんとなく人気が減った気がした。少しして、何時もならその辺の畑の脇に座って話し込む年寄り連中が居ないからだと気付く。今年の猛暑は酷い。鈍いアイツ等でも屋外に居る気は起きないらしい。
「山向こうの花火、もう終わったか?」
 言葉にしてから、自分が言った、と気が付いた。
「明日だか明後日だか。土曜日はどっちだ?」
「明日だよ」
呑気なもんだ、と思う。此処では曜日観念すら薄れるのか。
「テレビ、見ないんだから仕方無えだろ」
「そんなもんか」
ああ、と応える声にほっとした。
 なにに、安堵したのか解らない。少し可笑しな友人の、変わらない面に気付いたからか。
 離れた故郷に不変を求めている事に気付き、吐き気がした。
 紛らわすように、話題を変える。探す間もなく、思い付いた。
「斑、元気か?」
「ああ。そのうち妖怪になるんじゃないかってくらい、変わらない」
秀司の家に住み着いた猫を思い出し、頬が緩む。久しぶりに、猫に触れる。




 故郷ってヤツに帰ってきたのは、なんて事はない、友人に言われたからだ。こっちは勝手に親友と思っているが、アイツはどうだか解らない。昔から掴みどころのないヤツ。
「顔、見てやりなよ。俺に会いにくる、ついでにでも」
普通は逆だ。解っている返答には曖昧に笑って返す、秀司。
 帰ってこい、という言葉が無かったから、まあいいか、と思った。
 実家では数年前とそう変わらないやり取り。うんざりした。
 都会での生活に心底疲れていて、放っておいて欲しかった。そんな暇が無いんだと、何度伝えれば解るのか。逃げるように食事を手早く済ませ、高校生の時から殆ど変わらない部屋に引き篭もる。
 何年ぶりかの帰省だ、思い出のある場所を幾つか見て回っても良いと思っていた。しかし酷暑にうんざりして、やめた。

 田んぼと畑を見に行って、誰もいなくなった家で転寝をしていると、勝手に秀司が上がってきていた。
「早くね」
「まあな」
ガキの頃のように日陰を選んで寝転がる。遊ぶにも、何も無かったからだ。
 今はたぶん、暇なんだろう。家には猫しか居ない。
 約束は昼過ぎの筈だった。ガキの頃したように、山に登って、向こう側で打ち上げられる花火を見る。その為に帰宅を遅らせる事にした。新幹線のチケットも取っていない。久しぶりの休暇をこっちで過ごそうが、あっちで過ごそうが、そう変わらなかった。
 今は秀司が田畑を管理している筈だった。
「お前、暇なの」
「暇になるように、工夫してるからな」
秀司は無頓着だ。物事に対して、欲に対して。
「お前みたいに色々欲しがらないから、なにも要らないんだよ」
頭の中を覗いたような言葉に思わず舌打ちした。そうだ、秀司は俺に対しても無頓着だ。
 周りまで同じようにいかない、と秀司は解ってる。解ってて、自分だけが真っ直ぐ一本、簡単な道を選び取る。その為の柵を全部、丁寧に解いて何処かへやってしまう。
「操るのが上手いのか」
 思考が漏れた言葉に、秀司は律儀に反応した。寝転がっていても、眠気は無いらしい。
「秀司が周りを」
「俺が?」
素っ頓狂な事を言う、とばかりに喉を震わせる。
「そんな面倒な事、しないよ」
どうだか、と言ってやると軽く手を振られた。寝るらしい。
「昼飯、どうすんの」
「おばさんがヒヤムギ茹でるって」
「あっそ」
 なにが面倒な事、だ。酷く詰まらない嘘だ。


 故郷は疎外感のある場所だった。ずっと何時か出てやると思い、大学進学で上京した。
 ずっと、上京すると喚いていた俺に家族は呆れていたが、秀司はニコニコと笑っていた。そういえば、秀司は滅多に人を否定しない。
 逆に秀司は都会なんて面倒くさい、と高卒で家を継いだ。兄が継がないと宣言していた事もあって、すんなりと決まった。
 俺の受験勉強をよくやる、と笑った。それでも邪魔はしなかった。
 家を出たまま就職して、晴れない疲労が滅亡への闇のように蓄積している。
 月が細く、星が眩しかった。あっちでは絶対に思えない。精々、夜に眩しいのは外灯と広告、お世辞で、月が明るいと言えるくらいだ。なんだかんだ、都会の濁った空と違う色に、安堵する。
「眼が悪くなった」
「歳だな」
あれが見えない、これが見えない、と言うと、意外に星を覚えている自分に驚いた。
 キャンプ道具であるシートは土の湿気を拒み、適度な冷たさだけを伝えてくる。濃い、草木と土の匂い。枝は揺れていたが、風は地面近く迄、届かない。
 淡い眠気を自覚していたが、未だ眠るわけにはいかなかった。今寝れば花火を見られない。
「体力も無くなった」
「煩いな」
俺の衰えがツボらしく、楽しそうに笑う。ひ弱になった、と俺をからかった。
 秀司が楽しく笑うのは子供っぽくて、怒る気が失せる。よく言えば、純粋。
 軽い炸裂音に頭を上げる。少し遠いそれに、今年は風向きが良いな、と思った。
「行くか」
暗くて見えないだろうが頷いた。
 腹筋を使って勢い良く起き上がる秀司の横で、のっそり起き上がる。パチンと懐中電灯を点けて、手早くシートを纏める。なんだか、ライトを咥えてぼんやり映る顔が面白かった。
 秀司の動きを真似て岩を登る。あっという間に天辺に来て、麓の明るい祭を見下ろした。
 闇の中、点々と提灯の朱が神社と川原を繋ぎ、両端に集まった屋台が色取り取りの灯りを放ち、揺らめいている。誘蛾灯、という言葉が浮かんで、消えた。
 聞こえない筈の祭囃子が聞こえた気がする。肉眼では人の姿は解らないが、多そうだ。未だに盛況らしい祭に安堵した。
 畳んだシートをクッション代わりに、岩の上に座る。冷たさを期待していたが、酷暑の日差しが未だに残っていた。代わりに、抜ける風が気持ち良いから、と考える事にする。
「今年は鬱陶しい声は聞こえなさそうだな」
「聞こえても、なに言ってっか解らねえだろうな」
 二人で喧しいアナウンスを思い出す。余程喋り好きらしく、黙ってろと殴りたくなるくらいに、余計に喋る。
「去年はどうだったんだ」
「来てねえ」
 一瞬黙った俺に、秀司は笑った。
「一人で、花火の為に山登れって?」
「そっか、そうだな」
「お前と見て以来だ、花火なんか」
動揺した俺が馬鹿だった、と思った直後に爆弾を投下しやがった。そういうヤツだ、お前は。
 花火が楽しみなのか、少し声が高かった。姦しいアナウンスが殆ど聞こえない状況で、機嫌が良いのかもしれない。
「今年は何時もより多いらしいよ」
「俺はあの、のんびりしたのでも、良いんだけどな」
 一発目、ひょろりとした花火が打ち上がった。ぱっと頭上で広がって、ぱあんという音が遅れて響く。恒例の、これから始まると報せる一発目の花火。
 子供向けの、少し奇を衒った花火が疎らに打ち上がる。低い所で広がるそれは、眼下に見えた。経験則で、三十分はそれが続くと知っている。時折、連発で上がる花火に視線を上げながら、ぼんやりと眺める。
 花火ってやつは、どうも、勝手に胸が浮く。
 炎が広がって、興奮する。身体を震わせる音が気持ち良い。飛び込んでみたい、と思いながら、熱さを考える。
 合間に聞こえるのは、出資者やなんやらの話。野暮だと思う。始まる前に終わらせておいてくれ。
 技工を凝らした花火に、指先がじわりと熱くなる。職人技なのだ、打ち上げ花火は。今もそうなのか、知らないが、小学生の夏にした自由研究の内容を思い出す。
 あの頃から、毎年、此処で花火を見た。今、思えば、よくガキ二人で山に入らせた、と思う。秀司の家の裏の山は、俺等の遊び場だった。庭みたいなものだった。それでも、明るいうちだけだった。
 突然、高い花火が大きく広がって、視界が明るくなった。
 過去に跳んでいた思考が吹き飛ばされて、一気に戻る。戻った先も、そう簡単に、現実だとは思えなかった。緩いテンポで、空を暗くせずに、大きな花火が打ち上がる。
 思わず、口が開いた。声が漏れなかった事に、ほっとした。
 眼前の高さに一度下がったが、徐々に高度が上がる。見上げさせられる。ピンク、黄緑、紫、橙、黄金。目まぐるしく、色が変わる。
 もう、三十分も経った。
 開いたままだった口を閉じ、唇を噛む。
 大きく黄緑色の玉が開く。色が代わり、消える前にピンク色の玉が割り込み、空間を埋める。吹き出すような火花が押し広げる。低い音が続いて、呼吸が止まる。
 苦しさに気付く前に、一際高く、大きく、朱銀の玉が開いた。
 あ、と口が開く。
 直後に朱銀は消えて、さらさらと金の柳を零した。

 急に疲労が湧いてきて、どうせ暫く上がらないから、と寝転がる。風で冷えてきた岩が、気持ち良い。遠くで相変わらずのアナウンス、迷子、落し物、祭の話。薄く聞こえるお節介な声から、内容を推測させられる。迷子くらいは許すが、他はどうでも良い、黙っててくれ。気持ち良い余韻に浸っているんだ、とらないでくれ。
 横の秀司は静かに座ったままだった。呆と、花火が上がっていた上空を眺めている。
 急に、星が降ってくる気がして、瞼を閉じた。花火を見ている時には星なんか、見えていなかったのに。
 真っ暗になった視界に、花火の残像が、チラチラと焼き付いていた。疲れている時に視るものに似ていたが、今は気持ち良かった。
 何時の間にか、姦しいアナウンスが終わっていた。ぱあんと、花火が一つ細く高く上がる。
「祐介」
未だにぼんやりしている俺に、秀司は手を貸した。さっき迄、胡座にしていた足を三角に折って、顎を乗せる。
「疲れたか?」
「未だ、見るよ」
寧ろこれからだ、と思う。
 低い場所で、クラッカーのような花火が数回打ち上がる。軽い破裂音が、少し虚しい。
 少し間を置いて、目線に玉が広がる。ドン、と音に殴られる。三度も色が変わった。アナログな技術を想って、目眩がする。
 間を置いて上がる花火は、段々と高度が上がって、玉が大きくなる。重い音と、火の玉。火花が四方八方に飛び散って、作為的なそれが全体で球を作る。一瞬、消えたかと思った直後、金平糖のように火花が散る。少しの間の後の、なんともいえないサラサラという音で、触れられそうな気がした。
 ヒュウ、と鋭い音で暗闇を切り裂き、頭上で小さな玉が幾つも破裂する。間を開けずに小玉が尾を引き、パンパン空気を叩きながら、開いて散らす。
「魚に見える」
 唐突な言葉に秀司を見た。秀司は前を向いたままだった。花火の音で、視線だけが前を向いたが、顔は横に向き、動かなかった。
「空に水が詰まって、花火が魚に見える」
独白のようなそれが、俺に聞こえるよう、言っているのは解っていた。秀司は独り言を零さない。
 急に、水槽のように空に水が張っていて、その中に花火が突っ込み、開いているように思えた。同時に、何時かの秀司の声が蘇る。
「金魚?」
 俺の言葉に、秀司はククッと喉で笑った。むっとした俺に、再び笑う。
「お前、変わらないな」
「そうでもない。で、なんだよ?」
笑った理由を問えば、秀司がこっちを向いた。
 花火から視線を戻して、視線が交わる。
「懐かしい事、覚えてんだな」
「お前が変な事、言うからだろ」
横からは未だに、ヒュウ……パンパンパンと、軽い音が聞こえてくる。
 頭の中では、水に猛進するミサイルが水中で弾けていた。
 機嫌を直さない俺に、秀司は曖昧な笑みを浮かべる。
「そうかな」
「昔からそうだ」
今度は楽しそうに、笑う。苛立ちが霧散した。
 殴り合いの喧嘩もする。こうして、適当にやり過ごしてしまう時もある。どちらも、秀司次第だ。
 顔を前に戻した秀司に倣って、視線を戻す。顔が向いたままだと気付いているのか、視線だけが俺を向いた。
「地上から、空の海に向かってミサイルでも打ってんのか」
「なんだ、それ」
「知るか」
先に可笑しな事を言ったのはお前じゃないか。妄想はお前のせいだ、秀司。
 顔も前へ戻して、打ち上げ花火の夢に浸る。後ろから吹く風と、岩に残る、滲んだ熱さが現実に繋ぐ。
 内と外で色の違う花火が続けて上がる。クライマックスが近いらしい、テンポが上がる。
 ずっと、打ち上げ花火を見る気が無かった。当時居た彼女に誘われても、断った。俺の知っている花火は、これだけだ。あんな人混みで、有難がって見るもんじゃない。
 でも、本当は打ち上げ花火が好きだった。ビニールバッグに詰め込まれた花火よりも、好きだった。
 火で遊んで怒られたガキの頃を、フと思い出す。空に跳び上がる、煩いネズミ花火。地面からカラフルな火の粉を吹き出す置き花火。幽霊ごっこをして振り回した、釣り竿みたいな火の玉花火。的当てをした、ロケット花火。
 花火の音が胸を打つ。身体の中を犯して、内臓を揺さぶる。
 久しぶりの花火に、思い出を引っ張り出された。花火と一緒に記憶が弾けて、広がる。忙しない音の合間に、記憶の声が聞こえる。どんどん隙間が無くなって、記憶が花火に塗り潰される。
 夢じゃなくて、良かった。
 花束のように、花火が乱舞する。どうだ、と言わんばかりの大輪が広がったと思うと、消えようとする横に一回り大きな玉が広がる。押し分けるように天頂へ近付いていって、自慢気に視線を奪おうと大声で咲き散らす。
 一際大きな球を広げ、柳になって散り消える。素晴らしい、朱銀。一度、高度が下がって、幾度か柳が順に高くなり、再び乱舞が始まった。
 呼吸は自然に止まっていた。血流が少し煩い。花火の振動が身体を染める。
 眩しい花火を夢でも視られるように、眼に焼き付けようと、瞬きも忘れた。
 最後は一等大きい、柳が開いた。





 テントに戻った時には疲れ果てていた。ガキの頃は興奮冷めやらぬ、とばかりに朝方迄起きていたと思うが、今では信じられない。
 途中、何度か転げそうになった俺を、秀司が歳だ、と再び笑った。煩え、と返して、乾いた口内をミネラルウォーターで潤して、さっさと寝た。未だに山の中に居るような、お前とは違うんだ。
 ガキだな、と笑われたが、どうでも良かった。俺は寝る。起きていたいなら、勝手に起きてろ。

 適当な暴言を吐いて、沼に沈むように眠った友人を見下ろした。
 光量は落としていても眩しいランタンで、テントの中は明るかった。俺なら、この明るさでは眠れない。
 狭い村の中で、同い年の友人を持つ者は稀だ。周囲が勝手に特別に扱ってくる。お蔭で、嫁を娶らせたいおばさんに頼まれて、帰省させる事になったが、結果は悪くなかった。面倒そうに逃げていて、祐介にとってはそれどころじゃない毎日なんだろう。
 忙しい毎日なんて、俺は知らない。
 花火の名残で熱を持った血液のせいで、眠れそうになかった。
 昔から寝相の悪い祐介の為に、俺の足元の方へランタンを動かす。少し暗くなったからか、祐介は身動いだ。三十路も見えてんのに、呑気な寝顔だ。
 終わった花火が瞬きの度に、眼の裏でチラつく。
 一度、家族と人混みの中、見上げた時に、打ち上げ花火は嫌いだと決まった。眩しくて喧しく、人混みは窮屈で姦しい。
 再び見たのは祐介が、お前の山の上からなら隣の花火が見えそうだ、と言ったからだ。小学生二人で、小さなテントと道具を持って山を登り、昼間のうちに張って、飯を食い、夕方に頂上で転寝をして、夜の花火を待つ。翌朝、飯を食って、テントを畳んで、山を下りる。然程、大きな山ではない。マトモな道は無いが、子供の足でも数時間で、頂上に着ける。
 見下ろしたり見上げたり、人混みとは遠く離れた場所から、花火を見る。小さな優越感と、特殊な空間は気持ちが良かった。
 以来、毎年、天候が許せば山を登り、山の向こうの祭の花火を見た。最後は高校生の終わりの夏、祐介の上京が決まる、少し前だ。
 視界に焼け付いた花火のお蔭で、瞼を閉じても眠れそうになかった。
 煙草は無い。ライターが切れていて、探してまで持ってくる気が無かった。酒も重いから、とやめた。
 手持ち無沙汰な時間を過ごすのは、苦痛ではない。
 揺らいだガソリンランタンに、一瞬迷い、手を伸ばす。締めたネジを緩めて、ゆっくりとポンピングをする。予想通りの弱い手応えに、のんびりと同じ動作を繰り返す。
 荷物の中では一番重いそれを、持ってくるのは気に入っているからだ。気に入っているが、出番の少ないガソリンランタンは既に、古い物になっていた。当時は手を伸ばし、一番新しい物を選んだつもりが、気付けば、あっという間に歴史になろうとしている。
 ライトなら、最低限の一本ずつ、懐中電灯を持っている。店で探せば、同程度の光量で、軽く便利な物もあるだろう。それでも、重いランタンを、気に入っている。探せば理由はあるかもしれないが、探した事はなかった。探さないまま、使い続けている。
 気の入らないポンピングは、しゅこしゅこと音を立てていた。親指を離し、持ち替えて、親指の付け根の肉を当てて押す。火傷の恐れがある熱源を近くに置く、緊張感は心地良い。手首の負荷を感じながら、明るくなる光源に、言い知れぬ安堵を感じ、山の暗闇に対する根源的な恐怖を思い出す。
 急に、家の猫が恋しくなった。柔らかく、温かい、気紛れな飼い猫。最近の暑さで、近寄ってくるのは飯時だけだ。


 急激に覚醒したが、身体が動かない。
「ぃ、っ痛、いてえ、秀司!」
 左の肩が燃えるように痛い。
 身体が重い。クソ秀司が乗ってるからだ。暴れてもビクともしない。
「あ゛、ぁっ……てぇ、クソ、馬鹿、痛えっつってんだろ!」
吠えると惨めになってきて、泣きそうになる。
 覚えのある痛みに、噛まれているのだ、と解った。二度目だ、コイツに噛まれるのは。まったく、巫山戯てる。昔から、時々、俺を虐めて喜ぶ節があったが、噛むのは、前も、今も、唐突過ぎる。
 痛いと叫ぶ程、秀司の歯が肩に食い込み、肉をまさぐる。暴れようと緊張した筋肉に歯がめり込んで鈍痛が走った。
 思い付く限りの罵倒を並べる俺が楽しいのか、時々食い込む秀司の歯が震える。
 どうせ開放されると、怒りなど霧散してしまう。今のうちに言っておかなければ。
 前は腹を噛まれた。角度のせいか八重歯で少し切った。あの時は確か、腹が出てたとかいう、酷い理由だった。
 語彙が貧弱になり、痛いと喘ぎ、無様に泣いているような声ばかりになると、秀司は満足したのか、やっと解放した。
 身体を動かそうとしたが、疲労と痛みに固まる。
 立ち上がった秀司の顔が逆光で、一瞬、恐ろしく見えた。ゾクリと背中に這った悪寒を振り払おうと、なけなしの体力で秀司の足を蹴った。
 たいして、強くもなかったそれに、フラリと一歩下がり、顔に光が当たる。途端に、わけが解らない、異様な雰囲気が消え去った。
 お前は野犬かと詰るつもりだった。だが、満腹だ、とばかりに口の周りの唾液を拭い、浮かべた笑みを見てしまうと、まあ良いかなんて思ってしまう。張り詰めていた神経が溶けて無くなり、諦観に似た感情にすり替わって、沈んだ。
 点けっ放しの灯りで、眼がギラついて見えた、と思い返す。
「ったく、なんなんだよ」
「首が出てたから」
「そういうシャツなんだよ」
秀司には甘い。俺だけではないから良いか、と思う事にした。
 未だに余韻を味わっているのか、口の中で舌を蠢かしていた秀司が、急に顔を顰めた。
「楽しそうに噛んだくせに、なんて顔してんだよ」
「にがい」
「あ?」
「苦い」
子供のような鈍い発音に問い返せば、苦いときた。
 馬鹿かよ、と言いながら、原因を考える。
「虫除けじゃねえの。口濯いで来いよ」
 頭上のペットボトルを取ろうとして、肩に走った激痛に舌打ちした。
「クソ痛え」
微かに笑った秀司に怒りがぶり返す。肩に注意をはらいながら身体を起こし、ペットボトルを取って放ってやる。
 左肩だった事に薄っすら感謝したが、違う。そもそもアイツが噛まなければ良かった。利き手ではない方を選んだのは優しさではなく、単にアイツが噛みやすかったか、気分がそっちだったからだ。
 秀司はテントの外に顔を突き出し、口に含んだ水を何度か吐き出した。
 今度こそ、満足した、とばかりに戻ってきて、灯りを消し、横に寝転んだ。狭いテントは少し暑い。
「肩痛くて眠れそうにねえんだけど」
「うん、まあ、話くらいなら付き合おう」
あくまでもコイツは謝らない。謝られても、殴るだけだ。
「腹噛んだり首噛んだり、なんなんだよ」
「なにって、そうだな、衝動的でよく解らない。噛むってよりは喰うつもり?」
 肩は噛み切られなかった。腫れそうだと思うと、明日の帰宅が憂鬱になる。
 わざと大きく溜息を吐く。この話はこれでおしまい。

 こっちに残っている級友の、その後を聞いていた。それくらいしか、会話のネタが無かった。
「祐介はどうするんだ?」
唐突な問いに、間抜けな声しか出なかった。
 うっかり身動いで肩の痛さに呻く。秀司が笑い、俺は舌打ちをした。
 少しして、同じ話題なのだと気付く。嫁と家をどうするか、だ。
「知ってんだろ、相手が居ないって」
大学生の頃は彼女が居たが、勤めるようになって程なく、別れた。それからは仕事ばかりで相手は居ない。
「家は、まあ、アイツ等がやばくなったら、兄貴と相談するんじゃねえの」
稼ぎは断然、俺が上だ。兄貴は農協で働いてる。あっちが継ぐだろう、と勝手に思っていた。
「お前は?」
 なんとなく言ってから、愚問だった、と後悔した。既に家を継ぎ、家は元々、此処ら一帯の地主サマだ。相手なんて選り取り見取りだろう。
 笑われるか、と思ったが、秀司は一瞬黙っただけで、平坦な声を変えなかった。
「俺は結婚しないよ」
「は?」
「家は兄貴の子供に継いでもらう。だから、そのうち、家は兄貴にやる」
 頭が真っ白になった。
 そうだ、コイツは俺に告げる時には既に決めている。何時も俺が優柔不断に、問題が眼の前にくる迄、思考を放棄している事を、当然のように既に、決めている。
「なんで、お前、女嫌いだっけ」
 山の夜は静かだが、無音ではない。変な静けさに耐えられず聞いたが、馬鹿らしい。どうでも良い問いだった。
「別に女は嫌いじゃないよ。ただ、女の腹がでかくなって、股から俺のガキが産まれるってのが気持ち悪いだけ」
わけわからない。
 確かに妹が出来たって時の、母親の腹にビビった記憶はある。
「実家に帰して、見なければ良いんじゃねえの」
「お前の子供だって言われても、実感なんか湧かないだろうと思う」
言外に、押し付けられるのが怖いと告げる秀司が、なんだか意外だった。
「マトモな親父になってやれないなら、ガキが可哀想じゃねえか」
 違う、と思った。だが、既に決めた秀司をひっくり返せるだけの言葉は、俺に無い。
「良い叔父くらいにはなれると思う」
 何時産まれるともしれない、兄の子の為に、家を継いだ。
 噛まれた肩が、熱の塊を孕んで重い。血が脈打つ度に、鈍痛を訴える。喧しい、傷だ。
「時々、俺、お前が解らない」
 思わず零した素直なボヤキに、秀司は喉で笑った。
「かなり違うからな」
「お前は俺の事、まるわかりですって顔してる」
今度は声を出して笑った。
「お前は単純だからさ、祐介」
知ってるよ、と苛立ちを隠さずに返せば、再び笑われる。
 家を渡してやって、その後どうするつもりなのか、聞けなかった。大方、村を出るのだろう。外で暮らした事もないくせに。外に興味なんか無いって顔を、ずっとしてきたくせに。
 考え過ぎだ、秀司。
「今度はお前が来れば」
「どこに?」
「俺のとこ、遊びに」
秀司は一瞬、間を置いて小さく笑った。
 どうせ興味は無いだろう、と沈黙に納得していたが、予想は外れた。
「暇になったら、行くよ」
「その頃、俺、忙しいんだけど」
収穫期後と照らし合わせ、反射的に応える。
「そしたら、まあ、勝手に遊んでる」
「こんな場所は無え、けど、確かに、暇潰す場所なら幾らでもある、か」
 秀司が来る。あの寂しいコンクリートの箱に。草木ではなく、ビルと自販機が乱立する街に。
「迷子になりそうだ、いや、絶対なる」
「そしたら、あれだ、スマホ買え。カーナビみたいに使える」
「面倒くせえ」
「使い方、教えてやるから」
 会話は殆ど脳を滑っていった。他愛も無い、薄っぺらく、ガキのような会話。
 視界に弾けた花火を思い出して、夏が終わる、と考えていた。




 来た時と同じように、軽トラで送られる。本当に呼んだのは親のくせして、秀司に押し付ける。
 予想していた事だが、荷物が増えた。野菜を詰めた段ボールを渡されかけて、どうにか減らした。どうやって持たせるつもりだったのか、問いたいがやめておく。背負わせる、とでも言われたら、溜息すら出ないだろう。
 家に迎えに来た白い軽トラに、すっかり足になっている、と思った事を思い出した。昔は歩き、自転車で潰した距離だった。
 車窓からの風景を皮切りに、この三日間の記憶が蘇る。
 久しぶりの斑は相変わらずのツンデレで、再会を喜んだ俺に、不機嫌な顔をしながら揉まれていた。
 仕事がもっと、どうにかなれば、猫を飼おうか。いや、斑が妬く。
 昔に比べ、少し山に侵食された村。山に張ったテント、蛇のような縄、即席みそ汁と握り飯。
 瞼を閉じて、焼き付けた花火を思い出す。
 暫く、これで、頑張ろう。
 脳を電車の硬い揺れで、掻き回されながら、記憶を溜めていく。
 魚のような花火、空に張り詰める水。あんなところに水槽があったら、たいへんだ。
 ガキのような妄想に、一人で笑い、瞼を開く。たいして、景色は変わっていなかった。
 電車の継ぎ目で響く音の合間に、記憶の声が聞こえる。
「そのうち、家は兄貴にやる」
 酷く、淡々とした、声だった。都会は面倒だから、と家を継いだくせに、その家は後々、兄貴にくれてやるつもりらしい。
 一時期、おじさんが入院して、おばさんも村を出た。結局、そのまま二人は村に帰ってこないまま、病院の近くのマンションで暮らしている。だから、秀司は広い家で一人だ。いや、斑が居るから、一人と一匹だ。
 兄貴と一緒に戻ってくる、と言っていた、秀司の感情は解らない。
「暇になったら、行くよ」
 都会の下見のつもりなのか、秀司。全く、アイツが解らない。

 あと、何度、お前と花火を見れるだろう。
END