生死ベクトル
奈津x静雅
<節度のない恋> 01
その日は夕方から雨だった。コンビニで買ったビニール傘を差した大学からの帰り、遭遇した。
雨に濡れる美人。
何時も近道に使う公園は水溜まりが酷い時には使わない。通れるかな、と覗いたそこには雨に打たれる美人が居た。
傘も差さず、公園の広場に呆っと立っている。長い前髪が顔に張り付き、毛先は鎖骨と項に流れ白い肌と強くコントラストを描いていた。真黒な服を着ている彼女に気付いたのは暗い公園の地面を見ようと注視したからだろう。
女性には優しく、と育てられた奈津の次の行動は決まっていた。
フと雨が当たらなくなって見上げると、水滴がぽつぽつと音を立てて出来るのが見えた。傘だとやや遅れて認識すると、声を掛けられた。
「カサ無いの?近くなら送るよ」
掛けられた声に困惑する。どう応えるべきなのか解らずに黙ったままでいれば、男は否定と取ったらしい。
「近くじゃないなら、オレの家来る?カサ貸すし、そのズブ濡れのままじゃカゼ引くよ」
行こうと手を引かれそうになって、思わずビクリと避けた。一瞬だけ雨の下に帰る。
他人に触れられる事は怖い。世界に接触するようで、そして後でやっぱり出来ないのだと知るから。
男は謝罪して困るかと問うた。他人に関わられる事は好きじゃない。けれど、なんの気紛れか首を横に振っていた。
なんとなく眠れずに、朝方迄ぼんやりと街灯で明るい空を窓に寄り掛かって眺めていた。窓に触れていた半身だけが冷たい。間を開けて、繰り返し夜の出来事を思い出す。
雨に濡れたいと思って外へ出た。呆けていたら、男に出会い流されるままに連れて風呂に入れられた。女性と勘違いしていて、湯上りに驚いていた顔を思い出し、静雅は小さく笑う。あんな風に、嫌悪の無い動揺を向けられたのは初めてだと思う。帰り際に傘を押し付けられた。再び会う約束があるのは、不思議な心地だった。
数時間だけ眠って、夕刻に近付く時計に眼を向け、静雅は傘に思いを馳せた。水溜まりを作ってすっかり乾いた傘を丁寧に畳み、外へ出る。空は未だに青く、昨日の雨の名残は欠片も無い。
日常の中で使う道から大きく外れていたので、公園の場所はよく解らない。歩いていれば、どうにかなると静雅は考えていた。早めに出れば問題は無いだろう。
これから、彼との関係が長く続く予感は無かった。静雅の持ち物の中に、友人など無かったから。
一日中、意識は目の前に向かなかった。気もそぞろっていうのは、こういう事をいうのだろう、と奈津は思う。普段通りなら傘なんてあげた。安いコンビニ傘を返してと、次の約束。二度と会えない予感と、会いたかったからの理由付け。名前すら聞いていないと気付いたのは明け方だった。
公園に立っていた彼は不審者にも見えた。俺の言うまま家に来て、風呂に入って、髪を乾かされる彼は不思議な雰囲気のヒトだった。壊してしまいそうで、何度も強くないかと問う程に細さを感じさせる首や肩。さらりと揺れる黒髪、珈琲の湯気に眼を細めた小さな表情。傘を渡そうとして触れた手の少し低い体温。小さな事すら覚えていて、奈津は意外に思う。それほど、興味が湧くようには思えなかった。自分のお節介な面は理解しているし、仕方無いと苦笑交じりな気分で受け入れている。けれど、同時に深入りはあまりしなかった。
外灯に浮かぶ彼の姿が消えていく景色を思い出していたら、怒られた。サークル活動中だった、と慌てる。何人もコートに入ったテニスはやや危ない。テニスはずっと続けてきた事だけに、少し落ち込む。テニスをしている時だけは他の事を考えずに済んできた筈だった。けれど同時にさっさと帰れと言われ、早く公園に行けると喜ぶ自分も居て、複雑だ。
昨日なら雨が降りだした頃、夕方。ただ、今はもう少し遅い時刻で濃い朱が周囲を染めていた。少し気を緩めてしまえば夜になってしまう。この時間は気付かず暗くなっている事が多い。
もしかしたら昨晩と同じように彼が居るのではないかと微かに期待して公園を覗く。勿論、未だ約束の時間はずっと先で居ないだろう事は解っていた。広場に彼の姿が無い事に小さく肩を落とす。地面にぬかるみは無く、水溜まりの痕が残っていた。
約束は昨晩と同じ場所に同じ時刻、未だ少し早い。何処で待とうかと開いているベンチを探す。数人座っていて、何処に座ろうか迷う。煙草を吸っていたりして、何をしているんだろう。時間を潰しているのだろうか、夕食近いこの時間に住宅地でもなくマンションが疎らにあるだけの場所なのに。
公園の隅迄行って、端のベンチで寝ている細く黒い男が昨日の彼だと気付く。途端に浮き足立つ気分に叱咤して、そっと近付いた。背を預け仰け反って眠っているせいで、眩しいのか眉が寄っている。肘掛けに丁寧に畳まれたビニール傘があった。
荷物を置いて顔を覗き込む。長い前髪が横に流れていて、閉じた瞼のせいか睫毛が長く感じられた。顔が影になったからか、額の皺が和らいだ。彼を影に入れるように隣に座る。呼び掛けようとして、名を知らない事を思い出した。
早い時間に会えた事に嬉しく思いながら、待たせて申し訳なく思う。薄着が気になって羽織っていたシャツを掛けた。彼は居場所を探すように小さく身動ぎして、薄く眼を開いた。
「ゴメン、起こしちゃったかな」
ぼんやりとした様子に状況が解ってなさそうだと解る。こんなにキレイなのに無用心だ。
少しして小さく傘、と呟かれる。シャツに気付いて俺に渡しながら軽く目元を擦った。
「有り難う、返す」
用は終わった、とばかりに立ち上がった彼を呼び止める。
「一緒に飲みに行かない?」
この時は他に彼に近付く手を思いつかなかった。押しに弱いと思った事も忘れていた。
飲みながら名前を聞き出した。椎静雅と、彼らしい名前だった。女性に間違われたりしないかな、と思ったが言わなかった。酒を飲んだ彼は平素より更に、何処か浮いた雰囲気になった。嫌々ではなさそうだったし、珍しそうにしていたから色々進めた。結果、彼は今、俺の部屋で寝ている。
彼は同じ大学だった。椎静雅といえば、同じ構内でやや有名だ。キレイな外見をしているが変人なのだという噂。年齢は一つ上、彼は一年留年しているらしい。噂では出席日数が足りないだとか、試験を休んだとか。彼は他人に慣れていないのか、話を振ると少し間が開く。まるで違う時間を生きているようだ。他人の言葉を聞かない、極めてマイペースという噂はこれだ、と思った。彼が美人だからか、噂の広まりは早い。学科や講義を共にする学生から、サークル等を通して尾鰭が付いた噂が広まる。言葉が通じないんじゃないかとも聞いたけど、テンポが少し遅いだけで彼と会話は出来るし、思考は深かった。どんな生活をしているんだろう、と気になる程に考えは違った。
酒の力もあってか、彼は自分が何故一人で居るのかと説明してくれた。あまり理解は出来なかったが、人の輪に入れない事だけは解った。
そんな奇人変人扱いされる彼が周囲から飲みに誘われるわけもなく、誘われても応える前にやっぱ駄目だと判断されるようで、飲み慣れている筈も無く。更に押しに弱い事も相俟って、彼は簡単に酔い潰れてしまった。家はと問うても返事はよく解らない。ふらつく彼を支えて、結局連れて帰った。酔っ払いの相手は慣れているから、良いけれど。
でも、美人が自分のベッドで眠っている絵は結構辛い、色んな意味で。