ALiCe
本編 ※旧版掲載改稿中
ALiCe (2)
私はアリス。
今、私は……
ALiCe (2)
迷子から脱出する兆しを見ました。森に入ってから初めての新しい景色。ああ、本当に良かった。
小さな木の戸を押し開けて、突然の眩しさに慌てて瞼を下ろしました。それからゆっくりと眼を開けると、一人の背の高そうな青年が、お茶を楽しんでいます。
話し声が聞こえたと思ったのですが、気のせいだったのでしょうか。
背の高い帽子を被った男の人は、私に背を向けていて、未だ私に気付いている様子は有りません。私はゆっくりと近付き、声を掛けました。
「あの、お兄さん、ちょっと聞いても良いかしら?」
すると帽子の方は自然に振り返り、立ち上がりました。やっぱり背が高いです。手足が細長く、長い帽子を被っているので実際よりもずっと背が高く見えているのかもしれません。それから前髪がとても長くて、眼がすっかり隠れてしまっています。
「どうしたのかな、可愛らしいお嬢さん」
被っていた帽子をくるりと回して、そう深くお辞儀をしました。私もそれに倣ってスカートを少し摘んで腰を折ります。
どうやらやっと、まともな人の様です。
「初めまして、私はアリスよ」
自己紹介をすると、帽子の方は驚いた様ですが、帽子を被り直して、ステッキを持っていない方の手で握手を求めました。私がそれに応じると、帽子の方は微笑んで自己紹介をしてくれました。
「僕は帽子屋。ティーパーティーの奇人帽子屋です」
そして私に、先程帽子屋さんが座っていた向かい側の椅子を勧めます。
「有難う」
座ると何処からか素敵な薔薇の模様のティーカップが出てきて、帽子屋さんが淹れてくれました。そして自分も椅子に座ってティーカップを取って掲げ、
「何でもない日に乾杯」
にっこりと微笑んで言うと、一口紅茶を含みました。
「何でもない日?」
……やっぱり此処には普通の人は居ないのかも。
「そう、何でもない日を祝うんです。毎日がパーティー。ああ、強いて言うなら三月兎が処刑された日でしょうか?」
問われても困ります。と云うか、
「処刑?」
そう云えば、あの狂ったネコも殺されるな、とか何とか。
「そう処刑です。可愛そうにあの僕のパーティー仲間の老兎はハート型の角砂糖を使うのを拒否したばっかりに……。確かに彼は何時も砂糖を使いませんでした。ああでも、三月兎が死んだのは昨日です。やはり今日は何でもない日ですね」
私は断言します、やっぱり此処に普通の人は居ません。
だって何で角砂糖がハート型じゃないといけないのよ、掴み難いじゃない。それ以前に、ハート型だったら角なんて無いのだから、角砂糖じゃないし。それに帽子屋さんにとって三月兎とか云うのは友達じゃないの?何でそんなにあっさりしてるのよ。
「悲しくないの?」
「悲しいと云ったら悲しいですよ、勿論。けれど、本来この世界の住人に死と云うものは存在しません。何時かきっと彼は帰って来るでしょう」
意味が、解りません。でもあのネコよりはずっとましかもしれません。いいえ、ずっとましです。ちゃんと答えが返ってくるもの。
「まだ来たばかりの貴女には難しいかもしれませんね」
「ええ、難しいわ」
帽子屋さんの方が、理解させようと云う気持ちが伝わってくるのです。
…………あれ、兎?でも、老兎って。見間違いだったのかしら。私、少年兎だと思ったのだけれど。
「ねえ、三月兎って白い?」
でも、もしそうなのだとしたら、あの時走っていたのも解らなくはないわ。でも。そうしたら文句を言う先が無くなってしまった事になってしまいます。
「白ですか?彼は白くありませんよ。若しかして、歳若い子ではありませんでしたか?」
「ええ、多分」
私が見て追ってきたのは、背の小さい白いふわりとした兎耳と尾の赤眼の少年だと思います。やっぱりそんな子が居るのかしら。
「それならきっと時計兎の事でしょう」
良かった、亡くなってはいないのね。これで散々な眼に合っている文句が言えるわ。
「その時計兎は何処に居るの?」
やっと手掛かりを得られそうね。あのネコでは話を始める前に居なくなってしまったし、それ以前にまともな会話は出来ないもの。
「時計兎にお会いになりたい?」
「ええ。」
帽子屋さんは何故か躊躇っている様でした。
でもこんな世界、私は出て行ってやります。一方通行だなんて言わせないわ。
「それは自殺行為です。お止めになった方が良い」
殺されるって事?皆、そう言うのね。
「じゃあ、元の世界へ戻る方法を知らない?」
「残念ながら」
「なら、やっぱりあの兎の所へ行かないと。私、あの兎のせいで此処に来たのよ。」
「だから……。貴女はハートの女王をお知りでない」
ハートの女王?それが三月兎を処刑させた人なのね、きっと。
「大丈夫、私は殺されたりしないわ。角砂糖をハート型にしなきゃ処刑なんて、理不尽な女王なんかに負けないわ。お茶を有難う」
未だ不安げな帽子屋さんを置いて、私は其処を去りました。
来た時とは違う木戸から森へと入ります。そして私は案の定、道に迷って森から抜けられなくなりました。
† + † † + † † + †
ああ、新しいアリスは行ってしまった。
もう、老兎が死んでしまったから今度のアリスは現れずに終わるのだと思っていた。何時もアリスはそのずっと前に来て、僕等と楽しくパーティーを開いて、三月兎と親子の様に親しくなり、彼の死に嘆き女王の元へと行く。けれど今度のアリスは老兎を知らず、何故か白兎を知っていた。何時もと違う。アリスだけが違っていられる。
前回のアリスはとても淑やかな娘だった。前々回のアリスは大人しい娘だった。更に前のアリスは争いを嫌う娘だった。今回のアリスに、僕は期待して良いのだろうか。毎回、慎重に吟味して、結局期待して、この所全て駄目だった。ずっと、女王の力の方が勝っている。今度のアリスにも、最後には期待し夢を託すのだろう、僕は。その先は……。
気付くとチェシャ猫が、先程アリスが座った椅子に崩れた形で足を抱えて座っていた。
「紅茶、冷めちゃってるじゃねェか。酸化すんぞ。酸化したら身体に悪いって言うのはお前じゃねェか」
既にチェシャが突然現れるのには慣れている。
僕は思考の続行を諦めて、チェシャに眼を向けた。
「やあ、チェシャ、久しぶり。一緒に何でもない日を祝おう」
チェシャが飲まないのは解っていたけれど、彼の為に少し温めの紅茶を淹れて、自分の為に冷えた紅茶の代わりを用意する。
「ま、三月兎の為にでも飲んでやるか」
そう、一度も触れた事のないカップを摘んだかと思うと、なみなみと注いだ紅茶を一気に飲み干した。
「…………何で?」
僕はじっとチェシャを見詰めたまま、思考が真白に染まってしまう。
「はァ?帽子、何聞いてんの?三月兎の為っつったろォが」
三月兎の、為。確かに考えてみると、今迄三月兎が処刑されてから、チェシャが僕の前に姿を現した事はなかった、最期以外には。何時も僕が楽しくやっている時にだけ、やって来た。
「……有難う」
「何で帽子に感謝されなきゃなんねェかな」
唯一、僕と年頃の似通っている存在だからか、よく嫌われるこの猫を僕は嫌っていなかった。
「今日は長居しないんですね」
人をよく観察するチェシャが、何処かそわそわとしていて尻尾をずっと揺らしていた。何時もはもっと、眼の前の人に対して注意を払っている。
「この後、兎ン所行ってから、森を彷徨ってるアリスを助けに行かなきゃなんねェからな」
物語に何度も登場する彼は忙しい。それに何でも知っていなければならないから、沢山の人と関わらなければならないし。
「僕がアリスの所へ行きましょうか?」
「いい。じゃないとオレがオレじゃなくなっちまいそう」
「そうですね、アリスの前でのチェシャがチェシャらしいですから。誰にでも尻尾を振ってみせるのに、尻尾を振らないアリスの前のチェシャが一番チェシャらしいです」
きっと、本当に尻尾を振り媚びるのは……。
「そう言ってくれるのは帽子だけさ」
そしてチェシャは椅子の上に立ち上がり、頭上の木に跳び付いたかと思うとくるりと足を掛けて宙吊りのまま、僕へと逆さに笑い掛ける。
「チェシャ、今日は何で来たのですか?」
「さあな、アリスのせいかもしんね」
身体を大きく揺さぶってゆらりゆらりとブランコの様に遊ぶ。
「……チェシャ」
「何ィ?」
揺れている為、声に波が在った。
「今度のアリスは、君の眼にどう映りますか?」
揺れながらチェシャは首を捻る。
「どうもこうも無ェよ」
その一言だけを残してチェシャは森の闇に消えた。
きっと、チェシャはそれを言わせたくて来たのかもしれない。それとも本当に三月兎の為だったかもしれない。でもその全てはアリスを因果としているのだろう。
この世界の中心は王。
それからアリス。
(2)eND