ALiCe

本編 ※旧版掲載改稿中

ALiCe (5)

私はアリス。
今、私は……

   ALiCe (5)

久しぶりに日の光の下に舞い戻りました。
帽子屋さんが、あんな場所に篭っていては気が滅入るでしょう、と出して下さったのです。勿論、監視付きではありますが。
本当、何故私がこれ程迄に不当な扱いを……。いえいえ、そんな事は考えていませんよ?
「済みません、本当に」
せめても一瞬だけでも顔を見せるかと思ったのですが、ネコは現れませんでした。出てきたら文句を沢山言ってやろうと思っていたのですけれど。
「いえいえ、帽子屋さんがそんな事を言う必要は無いでしょう?」
そんな、本当、こちらが悪く思える程済まないと云う顔などしなくとも。
「でも、また戻って頂かなくてはなりませんし」
まあ、それはそうなのですが、こちらは追われる身。仕方が無いのです。
「私、帽子屋さんに迷惑を掛けているのでは?」
「いえ、そんな事はないですよ。これは物語の必然的な事象ですから」
よく、解りません。
「この後です、大変なのは。貴女か、ハートの女王サマか、この世界の王たる者はどちらなのか。それが全てなのです」
本当、解りません。よく、ではなくて、全く、です。
「貴女には、解り得ませんね。こんな話をしても無意味です。そろそろ、戻りましょう。鳥が危険を知らせてくれました」
そう席を立つ帽子屋さんに続いて、屋敷の地下へと戻ります。
この世界で会った人の中で、一番帽子屋さんがまともだと思ったのですが、あのネコは置いておいて、その次に言っている事が解らないです。

  † + †   † + †   † + †

ボク等の世界には、元々光が無い。だから、アリスと云う太陽が要る。
ああ、ハートの女王サマがもっともっと輝いていてくれたなら。
この前のアリスの時には、もう、駄目だって気付いてた。もう、無理なんだって。あの森があんなに暗いのはボクのせいだ。
ボクの我侭のせいで、誤魔化して、沢山のこの世界の住人とアリスが死んだ。それが、今の女王サマの物語に織り込まれていたものだとしても、ボクはもっと早く、終止符を打てた筈なんだ。ああ、ほら、見てよ、ボクの手は真赤だ。
暴走し始めた女王サマを止める者は居なかった。いや、寧ろ止められる人は居ない、か。この世界はアリスが動かしていくんだ。アリスこそがこの世界の中心。どんなにアリスが間違っていても、それが正義。
ボクは、終止符を打つ役目を背負った白兎。
解り切っていた筈なのに。もう、甘い時には帰れない。
軽いノックに顔を上げた。
「入れ」
もう城に居る者達が大分減ってしまって、人を呼んでもなかなか来なくなった。
「どうかされましたか?」
部屋の暗さに戸惑っていた様だが無視した。
「ハートの女王サマに謁見する。手配しろ」
「今から、ですか?」
「ああ、そうだ。さっさとしろ」
「了解しました。」
扉が閉められ、またボクの部屋には闇が舞い戻る。
カーテンだけじゃなくて、雨戸さえも締め切って、灯り一つ点けずに、暗闇を求めるボクに自嘲する。何時もは拒否して止まないのに。こんな事をしても、来る筈がないのに。望んだら、いけないんだ。
何度も繰り返したのに、謁見許可の知らせを待つ迄の時間が、何時もより酷く息苦しかった。

  † + †   † + †   † + †

地下室迄アリスを送り届け鍵を下ろし、それから部屋に戻っても、チェシャは未だ眠っていた。呑気なのか、それとも本当に疲れているのか、判断出来なかった。長い物語がまた一つ、終わろうとしているこんな時に、何をしているのだろう、本当。
……僕は何時の間にか、彼女に期待している。彼女が白兎に変化を与えたのでは、と。ハートの女王サマよりも、彼女の変化の力が強い事を。
何時もと違う終わりを迎えようとしている物語への恐怖と不安は在る。それだけ、あのアリスは強かった。けれどもう、終わりだ。成長しなくなった僕等でも、未だ夢を視る事だって出来る。けれど、覚めない夢など無い。
「チェシャ……」
君の眼にはどんな未来が移っているのだろう?僕等に未来なんか在るのだろうか。
そう、伸ばしかけた手を引く。いや、引こうとして、止められた。
「何で止めンの?」
何時から起きていたのか、チェシャはにやりと笑って掴んだ僕の手首を引く。
「何時もさ、途中で止めちゃうよな、帽子って」
体勢を崩して、被っている帽子を落としてもう片方の手をベッドに付いた僕をチェシャが嘲笑う。
「チェシャがどんどん進んでいってしまうから、そう見えるのですよ、きっと」
そして、眼を合わせられない事すらも嘲笑う。
「帽子は歩いてすらいないだろ」
くつくつと笑ってそう言った。僕の記憶の中のチェシャはよく笑う。楽しそうに、愉しそうに。
「酷いですね。いくら僕でも歩く事ぐらいしています」
「じゃァ、帽子は蟻よりも遅いなw」
僕の手をベッドに押し付けたまま、起き上がって僕を見下ろす。
「彼等は働く為に、自らが生きる為に活動しているのです。怠惰な僕と比較など出来ないでしょう」
それを聞いて、暫くチェシャは笑っていたのですが、突然、ぴくりと耳を欹てると尾をベッドに撫で付ける様に振り始めました。
「どうしたのですか?」
チェシャは心此処に在らずと云った感じで、眼をきょろきょろとさせて体を横に揺らす。
「んー…、兎がオレを欲してるんだよな」
チェシャはどんなに遠くても、その意思さえ有れば、この世界の中の事なら全てを感じ取る事が出来る。それがチェシャの役目に必要だから。僕よりも多くのものを背負っているだろうチェシャは、僕よりもずっと自由に見えた。
「行きますか?」
「行かねェよ」
即座に返ってきた言葉に何処かほっとする自分が居る。
「思い通りに動くのも癪だしィ、今行ったらおじゃんになりそうだし、泣き付かれるのも、餓鬼の世話も嫌いだかンな」
そして、少し白兎が羨ましい。何時も自分のしたいようにするチェシャを、こんな風にさせるんだから。
「チェシャ……」
思わず手を回して抱き付くと、チェシャは驚いた。けれど直ぐに笑い出して、尾を振る。
「どしたァ?」
「何か、チェシャが寂しそうだったと云うか、何と云うか……。済みません」
上手く言葉にならず、離れようとして抱きしめられる。
「良いじゃん。帽子からって久しぶりだしィ。も少しこうしてよォぜv」
ふと、幼い頃はよく、皆で一緒に遊んでいたのを思い出した。
何だか、チェシャを慰めるつもりだったのが逆になってしまった気がする。けれど、楽しげに揺れるふさふさとした毛が温かくて、離れられなかった。

  † + †   † + †   † + †

謁見の間の護衛は一人として居ない。前は此処の両側をずらりとトランプ兵が壁を作るように並んでいたのに。今は皆、外か城内の巡回に追われている。此処へ来ると、トランプ兵が減った実感がボクを襲う。
広い床が冷たかった。跪いて頭を垂れたまま声を掛けられるのを待ったのは、ボクの甘えだろうか。それとも未だ決心しきれないボク優柔不断な所なのだろうか。
「こんな時間に何用か」
やっと、掛けられた声にほっとして、その瞬間、一気に沈む。
「昼のお休みの時間に、済みません」
こんな言葉に意味が無いのは知っている。
「良い。用件を申せ」
だって、ハートの女王サマはこの世界でボクだけを信用してるから。でも、それがまた、ボクを躊躇わせる。
「本日は……」
言葉が詰って、沢山の思い出が蘇る。沢山の、愛しい、消えてしまうだろう思い出が。こんな事なら、こんな楽しい思い出など作らなければ良かった。
ボクの、ハートの女王サマ。
「本日は、物語の終焉の宣言に参りました」
最後にと、女王サマの顔を見上げる。そして手を前に翳して、何人もの仲間やアリスを屠ってきた鎌を呼び出す。それでも、女王サマは無言で、泰然としていた。
「ボクは時計兎。物語の始まりと終わりを告げる者」
何時もより鎌が重い。そのまま持ち上げているのも面倒で、引き摺って女王サマの足元迄歩み寄る。
「ハートの女王サマ」
もう、口にする事すら無くなってしまうだろう、名前。ずっと何度も呼んだのに、きっと忘れてしまう。
「最後に一言だけ、貴女の白兎として、申し上げます」
何時も王達を忘れても平気だったけれど、ハートの女王サマだけは、忘れたくない。
「御免なさい。そして、ボクは貴女を愛しています」
たとえ、ボクの記憶から散ってしまったとしても。
鎌を振り上げ真直ぐ女王サマを見上げる。今迄の重さが嘘の様に、鎌は軽々と持ち上がった。そして、鎌を背の方へと持っていき、振る。
刃がどんどんと迫っているのに、女王サマは、微笑んでいた。ずっと見られなかった、あの、暖かい笑顔。ボクが愛した笑顔。
……?…………あ……。
「嫌だっ!」
ボクが叫んでももう遅い。ボクの弱っちい腕では、突き進み始めた鎌は止められない。この事を予想していたかの様に、ボクの鎌はやたらと大きく、何時も手に余っていた。
鎌がボクに嫌な手応えを伝える。ごとりと音がしたかと思うと、血が降り注いだ。 「ああ、あぁぁ」
ぴちゃりぴちゃりと音がする。ボクの足音だとなかなか気付けなかった。気付いて、玉座へと向けていた足を無理矢理止め、片手に引っ掛けていた鎌を捨てる。どうせ、新しい物語が始まれば帰ってくるんだ。
「ボクは時計兎だ。時計は止まった」
頭を振って、唯一言だけれど、あの言葉をボクの中から消し去る。
血で、頭から爪先迄ずぶ濡れになるのは初めてじゃないのに。
「……こんなに重かったっけ」
ぼろぼろと零れ落ちる涙を止められないまま、血の海を抜け出した。

ハートの女王サマ、貴女は最期迄、ボクの女王サマでした。




久しぶりにこの森に足を踏み入れたけれど、ボクのせいで何時の間にかこんなにも暗くなってしまっていた。
「……猫、か」
一人のトランプ兵にも出くわさず、森の中程迄進んだ頃だった。ふと眼の前の道を猫が塞いでいた。
「そのまま、帽子ン所行くつもりだろ。駄目だかンな。アイツ、血が駄目なんだから」
だって、帽子屋の所にアリスが居るんだから仕方が無い。でも、それより此処に来たのは……。
「ボクより帽子屋の方が大事なんだ」
ああ、どんどんと記憶が、思い出が泡になって消えていく。早くしないと、全て消えてしまう。
「ねえ、猫、一つお願いが在るんだ」
そう言うと、気紛れの天邪鬼な猫は嘲笑った。
「オレに?馬鹿じゃねェの。オレを誰だと思ってンだよ。つか、お前、オレの事嫌いなんじゃねェの」
それでも、猫じゃないと駄目なんだ。
「何でも、するから」
言って少し後悔したけれど、これは猫以外に、全てを記憶していられる、記憶していなければならないチェシャ猫以外に、頼んでも意味が無いから。
「ふゥん、何でも、なァ。ま、楽しみに待ってろよ」
猫はにやりと笑んで軽く尾を振り、やっとボクに近付いた。
「ほら、さっさと腕出せよ」
「何で……」
ボクの望みが解るんだ。
「オレが兎の事で解んねェ事が在るとでも?」
言われて思わず苦笑する。
「これは、何時もと同じ物語?」
聞いても答えてくれないのは解っていた。左の袖を捲り上げながら、腕を持ち上げ差し出す。
「ハート、ね」
「解ってるって。ったく、あんなのの何処が良いかね。オレの方がずっと良いと思うけど」
「猫……」
こんな時でもそんな事を言うのか。ボクのハートの女王サマを侮辱するな。
「はいはい。言っとくが記憶までは刻めねェからな」
「構わない。後で聞いても教えてくれないのも知ってる」
一人で膨大な記憶を所持し続けなければいけない猫。
「どっち向き?」
言われて考えていなかったのを思い出す。
「見た時、ハートになる様に。逆さじゃ嫌だ」
「はいはい。ったく……」
そう言いながらも、ちゃんと爪を出す。
「ボクの女王サマなんだ。ねえ、深く刻み込んで。治ってしまわないように」
治って消えてしまわないように。せめて、これだけは。
もう、猫は何も言わなかった。只、爪をボクの内手首に突き立てて、ゆっくりとじっくりと、皮と肉を引き裂き、ハートを描いていく。猫の爪を伝って、血が手首を回っていき、裏で雫になって地面に落ちていく。
「痛ィ?」
「当たり前だろ」
半分程、描いて猫が問うた。ボクの応えを聞くと、猫は楽しそうにボクの手首に刻んでいく。
もう、顔が思い出せない。暖かい、笑顔だった筈なんだけどな。
毎回、ボクはこんな事を繰り返しているのだろうか。それとも、初めてなんだろうか。
「……猫は狡い」
この世界で唯一、今迄の王を、アリスを、全ての事を覚えていられる。
「オレだけかよ?」
それが定めで、役目で、忘却を赦されてはいないけど。
「帽子屋も三月兎も狡い」
今迄のアリスを覚えていられる。
「ボクだけだ」
全てを忘れてしまうのは。アリスも王も忘れてしまう。繋ぎ止めておけるのはこの世界の住人との記憶だけ。それすらも全て記憶していられるのかと云ったら、それすらも怪しい。
「餓鬼は知らなくても良いンだよ、昔の事なんか。ほら、終わったぞ」
ボクだけ、覚えていられない。何も、大切な事は何一つ、忘れてしまう。
「…………有難う」
左手首を眼の前に翳す。血で赤い、ハート。そう、ハート。ボクのハート。
「はいはい。何でもするっつったの忘れンなよ。あーァ、オレに血の匂い移っちまったじゃん」
未だ流れる血が、零れ落ちるボクの記憶の様で。
「ったく、帽子に絶対ェ言われる」
そう言いながら猫は指に絡み付いたボクの血を舐め取る。
「ちゃんと血の匂い抜いてからアリスを迎えに来いよ」
何時もの笑みを浮かべながら、迷いの森へと姿を消した。
あの猫だけが自由に思い通り行き来出来る森の中に一人で立って、残っているけれど消え逝く思い出を辿っていく。
腕の痺れる様な痛みも、血の匂いも気にならなかった。それよりも、たった今思い返していた記憶がもう既に蘇らない事の方が、辛かった。
物語の終わりと始まりの狭間は嫌いだ。でも、この世界が最初の時へと戻る時間が必要な様に、ボクも女王サマの事を忘れなければならない。女王サマを覚えている間に、新しい王を立てる事なんてボクには無理だ。きっと、そんな子供だから、ボクは色々な事を忘れなくちゃいけなのかもしれない。でも、ボクはこれ以上、成長出来ない。三月兎程と我侭は云わないから、せめて、猫や帽子屋位、大きくなりたかった。でも、そう定められているのだから。
ああ、もう最後のシーンに来てしまった。刃が迫っても静かで、微笑んですらいたボクの女王サマ。
ああ、消えないで、お願いだから。せめて、ゆっくりと、残酷な場面だとしても、少しでもその顔を見ていたいから。
最後の一言迄、貴女はボクの理想で在り続けました。血の様な赤がよく似合った女王サマ。
御免なさい、ハートの女王サマ。ボクは貴女を覚えていられない。
それでも、ボクは貴女を愛しています。

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