朝になっても薄暗い気がする村を宿の二階の窓からマーチは眺める。村の入口は見えるが、誰も居ない。欠伸をしたい体調だったが、気分が乗らない。
「今回は早くから人が集まるな」
客の面々を思い出しつつマーチは階下へ行く。途中開いて空室を示していた戸が二つ閉まっていて、誰かが宿に泊ったのだと知った。
ロビーに着くとふわりと香る甘い香りに眼が覚める。カウンターを越えてキッチンへ向かうとディーイーが朝食を作っていた。
「ありゃ、一応客なのに済まんね」
振り返ったディーイーににへらと笑って手伝おうかと問うが断られる。ベーコンエッグとトーストで済まそうと考えていたマーチは、差し出されたフレンチトーストに眼を輝かせた。
「良いの、自分食べたくて作ったじゃねェの」
「良い。世話するのは慣れている」
棚からフォークとナイフを出してキッチンテーブルに座るマーチに何を飲むか問う。どうやらマーチが眠った後に調べたらしい。
「紅茶ストレートで。いただきまーす」
温かいフレンチトーストは疲れた神経を癒す。本当ならば恋しい人の料理を食べたいところだが。
「宿の使い方解ったんだな」
ディーイーは無言で頷く。この宿屋は不思議な宿屋で、村の中で唯一の機能を持っている。求めながら探せば、大抵の物は直ぐに見付かる。ありそうな場所を探せば直ぐに出る。宿屋に無さそうな物や仕舞う場所が無いような物は出てこない。
「マーチといったな、案内人」
五人分のフレンチトーストが焼かれるのを待っていた。ディーイーはマーチの紅茶と自分の朝食を置き、マーチの斜め向かいに座る。
「案内された覚えは無いが」
ディーイーの薄い笑みと冷たい視線を物ともせず、マーチは紅茶の香りを楽しんで一気に呷る。二杯目を注いでマーチはにへらと笑う。
「これからすっからな。だが、未だ先だ」
語らない理由を問われてマーチは素直に面倒だからと応えた。
「客の人数は既に決まっている。未だ時間はあるゼ」
今の内に村の観光でもしてろ、とマーチは言う。見所は一つも無いが、村を知っていて損は無いだろうと笑った。
飲み物を探しに降りてきたカットと入れ替えにマーチはキッチンを出ると、ロビーの椅子の周りを巡った。足が短く背の高い椅子は座れば頭より高くあるのに、横に立てば肘程度の高さだ。後に立ち見下ろすと、背凭れの一番上に名前の刻まれた金属のプレートが時折あった。昨日、着席者のあった椅子だ。一周して確認すると、自分の椅子に座る。ガランと扉に付いたベルが鳴った。来訪者だ。
八人目、狂博士のビクター。
扉は安宿の入口と思えない仕草で、閉められた。男は頭の先からつま先まで覆ったマントのフードを下ろすと扉の正面に座っているマーチへと眼を向けた。真直ぐのプラチナブロンドと空色の瞳、右にモノクルをしていて知的な印象だ。にへらとマーチが笑い、空席を勧める。
「俺は案内人、三月兎のマーチ。ハジメマシテ」
「ビクター・シェリーだ。シェリー博士と呼べ」
しかし、男は名乗っただけで座らなかった。どうやら男は案内人と名乗ったのに説明が不足していると主張しているようだ。そこへキッチンに居た二人が来訪者に気付いて顔を覗かせる。ディーイーは直ぐにキッチンに戻ってしまったが、カットは驚いて男を呼んだ。
「ヴィク」
ビクターに近寄るカットに、知り合い同士かと眼を向けつつ再び席を勧める。ビクターはカットの右隣、マーチの左隣にマントを掛けた。
「説明は客が揃ってからする」
マーチはそう言うと、夕暮れ時には宿に居るように告げ村の中で時間を潰せと告げるとキッチンへ行く。キッチンに居るディーイーにも告げ、二階へ消える。少しして再び姿を見せたので、もう一つ埋まっていた部屋の住人、マーズにも同じ事を伝えたのだろう。
「何かあれば呼んでくれ。村の中で俺の名を言えば、宿へ行く」
マーチは軽く手を振って宿屋を出た。暫く来訪者は居ないのだろうか。
日中も薄暗い村だったが、夕刻になると夕焼けも無く真暗になってしまった。昼間の内にマーチが声を掛けていたので、全員が宿屋に揃っている。昼間は紅茶だけ飲んでいたマーチは酒を手にしていて、パジーは相変わらずヤンに構われている。チェシャは機嫌が悪いのかマーチが嫌いなのか、睨んでいる。チェシャ猫と名乗った通り不気味な笑みが口元にはあり、鋭い眼とは不釣り合いだ。ディーイーは昼間宿屋から離れていたが、簡単な夕食を作って振舞い今は静かに椅子に座っている。カットとビクターは昼間村の中を歩いて周って居たようだが、疲れた様子は無く各々座っていた。
「マーチ、問いがある」
不意にビクターが言葉を投げた。パジーに喋りかけていたヤンが黙り、全員の視線がビクターに向けられる。どうぞ、とマーチは金の兎耳を揺らす。
「ただ、今日は客が揃わない。[ルール]の説明は明日にする」
両手を上げて逃げを示すとにへらと笑った。結局ビクターは問えない。そして足と腕を組み、扉に眼を向ける。数人の視線がつられて扉を見ると、ガランと扉に付いたベルが鳴った。来訪者だ。
九人目、妖飼いのトーキ。
扉は遠慮がちに開き、顔を覗かせた青年はマーチのにへらとした笑みに小さく笑み返して宿に入る。青年は落ち着いた色の着物を纏っているのに、ブラッドオレンジ髪に、黄に近い緑から深く暗い緑が入り乱れた瞳をしていて派手だった。しかし、既に集まっている客も異様な風体な者が多い。しかし、青年はあまり見掛けを気にしている様子はなかった。寧ろ雰囲気や違和感に戸惑っている様だ。チェシャの椅子の後で突っ立ったままの少年にマーチはにへらと笑う。
「俺は案内人、三月兎のマーチ。ハジメマシテ」
「須原燈輝(スバルトウキ)」
空席を勧めるとトーキはマーズの左隣、チェシャの右二つ隣に座った。揺れた袖の向こうでチラリと右腕を埋める褐色に近い橙の刺青が眼を引いた。袖を引く左手の薬指のリングも着物には合わない。
マーチはグラスを呷ると壁の時計を見る。そろそろ夜になる時間だった。横のテーブルに音を立ててグラスを置き注目を集める。
「今日はもう来ない。折角だから自己紹介を」
名前だけでも構わない、とマーチは左隣に座るビクターに眼を向ける。時計回りに進めろという視線だ。ビクターはやや間を開けたが名乗った。
「ビクター・シェリー。シェリー博士と呼べ」
「カット・チェーシャー」
間髪開けずに隣のカットが言う。マーズは次が自分だと直ぐに気が付かなかった。二つの空席が間にある。
「マーズ」
マーズは何処か気だるげだ。その左隣は先程着たばかりの着物の青年だ。
「須原燈輝」
マーチが慣れない音を口の中で転がす。自分の名が彼等の中では呼び難いと気付いたトーキは提案した。
「慣れねェんなら、トーキで良い」
袖に両手を突っ込んだトーキにマーチはにへらと笑い、一つ席を跳んで正面に座るチェシャに視線をやり促した。赤紫の猫尾が大きく揺れる。
「チェシャ」
「オレやヤン。よろしくなー」
一つ席を空けて隣のヤンが笑った。そして次のパジーに優しい笑みを向ける。
「パジー」
よく出来ました、と言うかのようにヤンは隣の席パジーに手を伸ばしてくしゃりと頭を撫でた。
「ディーイー」
一つ空いた椅子を飛ばして黒尽くめのディーイーが静かに言う。ヤンが身を乗り出して手を振って夕食の礼を言ったが、ディーイーはついでだったと応えただけだった。客は八人、十六ある椅子の空席は七つ。マーチは一周しても、少しロビーを見渡していたが、にへらと笑うと足を組み直す。
「俺は三月兎のマーチ。一応、案内人だが説明は明日にする。今日は始まらない」
グラスを手に立ち上がって、マーチはにへらと笑う。
「今晩は村の中なら好きに過ごしてくれ、どうせ村からは出られない。必要な物は宿屋の一階で探せば大抵の物は見付かるだろう。明日は昼頃、この自分の席に居るように」
告げるとマーチはカウンターから酒瓶を幾つか手にして二階へ上がっていく。途中で振り返ってにへらと笑った。
「何か用があれば一番奥の部屋に居る。ただ、説明は個々にするのは面倒だからしない」
瓶同士がぶつかる高い音を響かせながらマーチは消える。
マーチが消えるとマーズも二階へ向かう、昨晩と同じ部屋を使うのだろう。チェシャ猫は扉のベルを鳴らして宿を出る。カットも昨晩は宿を使ったが、今日はビクターと共に宿を出た。ヤンは暫くパジーと戯れていたが、二人で宿を出る。村の他の家を使うのだろう。戸惑っているトーキにディーイーが取り敢えず宿の二階を勧めた。
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